ランナー

コース周辺史跡めぐりマップ

鹿児島マラソンコース周辺には、明治維新で活躍した偉人に関する史跡がたくさんあることをご存知でしょうか!?
西郷隆盛銅像を始め、島津斉彬公像、小松帯刀像などコース周辺に点在する史跡をまとめた「鹿児島マラソンコース周辺史跡めぐりマップ」を作成しました。
大会前のコース下見を兼ねた史跡めぐりにお役立てください!

[ 青線:フルマラソン 赤線:ファンラン ]

① 西郷隆盛銅像

1828(文政10)年~1877(明治10)年
貧しい下級武士の子として鹿児島城下に生まれた。7歳のとき郡方書役助という農村をまわって農業の様子を調べ、年貢をとる役人になり、農民のみじめな生活を知る。農業についての意見書を藩庁にたびたび出したことが藩主島津斉彬に認められ、斉彬の信頼を受けて、やがて日本の西郷として活躍するようになる。1867(慶応3)年、将軍慶喜が大政を奉還し、政権が朝廷に返された。西郷の率いる薩摩藩などの兵が見守る中で、王政復古の大号令が発せられ、天皇中心の明治政府が発足した。西郷は、続いて鳥羽伏見の戦い、江戸城の明け渡しに活躍するとともに、明治新政府の参議となって、廃藩置県などの改革を行い、近代日本建設の土台づくりをし、明治の新政府樹立に大きな功績を残す。明治6年には朝鮮への使節派遣の主張が通らず下野。私学校を開設し子弟教育に専念した後、西南戦争の大将として新政府軍と戦うが、田原坂の敗北、そして、城山で自刃、50年の熱い生涯を閉じた。昭和12年5月23日に設置された銅像は、台石を含むと約8mにもなる。

場所を確認する

② 大久保利通銅像

1830(天保元)年~1878(明治11)年
高麗町の川岸の近くに生まれ、まもなく加治屋町に移り住んだ。西郷隆盛より2年8ヶ月下で、学問好きな父に見守られ、西郷たちと一緒に郷中教育を受けて成長した。明治政府ができると、大久保は参議(今の大臣)となり、さらに1871(明治4)年には大蔵卿となって西郷などと廃藩置県をやりとげ、近代的な統一国家を実現した。地方の政治制度を整えたり、地租改正を実施したり、産業を盛んにする殖産興業の政策など日本の近代化に積極的に取り組んだ。西南戦争の翌年の1878(明治11)年、紀尾井坂でおそわれ、47歳の生涯をとじた。日本の近代化に尽力した大久保利通の功績を讃え、彫刻家・中村晋也氏により製作された銅像。像の足元には、大久保が暗殺された際に一緒に亡くなった馬車夫と馬の像も彫られてる。

場所を確認する

③ 島津斉彬公像

1809(文化6)年~1858(安政5)年
島津家第28代藩主。父は藩主斉興と母は鳥取藩主池田治道の第三女周子(賢章院)との間に、長男として江戸で生まれた。1851年(嘉永4)斉興が隠退し斉彬が第28代藩主となった。藩主になると、藩政改革をし、藩の富国強兵策を率先して強力に実行した。磯に集成館を建て、反射炉、溶鉱炉をつくり、新式の大砲(薩英戦争で使用)や銃を生産するとともに、紡績工場、電信機、ガラス製造所、水雷、綿火薬など多くの近代工業化や教育制度の改革にも手をつけ、郷中教育の徹底、軍事調練、学者の招待など積極的に進めている。機を見て上洛する(京都に上る)日に備え、城下天保山の調練場で炎天下に練兵の指揮をしていたとき急病となり、7月16日、ついに帰らぬ人となった。49歳であった。
斉彬は、城山の麓、照国神社に祭られ、今も多くの県民の心の中に生きている。

場所を確認する

④ 小松帯刀像

1835(天保6)年~1870(明治3)年
喜入領主肝付主殿兼善の3男として城下に生まれた。
1861(文久元)年、島津久光の藩政改革を助けて藩政の中心人物となり、大久保利通など有志の者を重く用いた。
1866(慶応2)年、京都の小松邸で坂本龍馬の立ち合いのもとに、小松・西郷と木戸孝允(桂小五郎)の間に薩長同盟を成立させ、1867(慶応3)年、討幕の密勅を受けた小松は西郷・大久保と帰郷し、討幕挙兵に導き、王政復活、倒幕と明治維新の実現に活躍した。

場所を確認する

⑤ 天璋院(篤姫)像

1835(天保6)年~1883(明治16)年
今和泉島津家の島津忠剛の娘、一子として、鹿児島城下(現在の鹿児島市大竜町)に生まれた。島津本家は、1853(嘉永6)年に、一子を島津斉彬の養女として鶴丸城に迎え入れ、名は篤姫と改められた。同年、江戸に入ったが、政情不安や天災などの影響もあり、1856(安政3)年ようやく将軍家定の御台所となる。1858(安政5)年に養父斉彬、夫家定が相次いで死去し、篤姫は落飾して天璋院と号するようになる。德川家の存続を願う嘆願書を討幕軍の隊長宛に出すなど、江戸城無血開城に大きな役割を果たした。篤姫は、激動の時代の中、自分の正しいと信じる道をまっすぐに生き抜いた、薩摩の心を持ち続けた女性であった。

場所を確認する

⑥ 村田新八誕生地の碑

1836(天保7)年~1877(明治10)年
西南戦争で薩軍の大隊長として活躍。鹿児島市薬師町に生まれた。少年時代から西郷隆盛と友だちで、よく遊び、よくけんかした。戊辰戦争では、2番隊監軍として活やくした。西郷や篠原国幹たちと私学校をつくり、私学校の砲隊学校の校長格として青少年たちの指導にあたった。アコーディオンをひくほど音楽を好む幅広い人で、温泉好きでもあった。西南戦争では、はじめから進んで賛成してはいなかったが、いざ始まると、大隊長として活躍した。

場所を確認する

⑦ 五代友厚銅像

1835(天保6)年~1885(明治18)年
8歳の頃、藩校の造子館に入り、学問と武芸に励む。12歳の時、藩主島津斉彬から外国の地図を写す仕事を任せられた友厚の父は、この仕事を友厚にさせた。その時、友厚は2枚の世界地図を作り、1枚は斉彬に差し出し、1枚は自分の部屋の壁に掲げた。また、直径2尺余りの地球儀を作成したというエピソードが残っている。1863(文久3)年、薩英戦争が始まり、寺島宗則とともに捕虜となり、1年間藩に戻ることは許されなかった。1878(明治11)年、大阪に最初の商法会議所や株式取引所、大阪商業高校(現在の大阪市立大学)を建て、大阪の商業の発展に力を注ぐなど、自らが起こしたもの、設立に関わった事業は数多い。

場所を確認する

⑧ 西郷隆盛蘇生の家

この地は、安政5年(1858)11月16日未明に、海中に身を投じた西郷隆盛、月照上人の2人をこの砂浜において焚火をもって暖め、付近の坂下長右衛門宅に収容し、手厚く介抱した場所である。月照は亡くなったが、大久保利通などによって手厚く南林寺に葬られた。月照の墓は現在、南洲寺の境内にある。

場所を確認する

⑨ 鶴丸城跡

鹿児島城。慶長7(1602)年に島津家第18代家久によって築城。集成館事業においては、城内製錬所(開物館)に反射炉のひな型が造られ、反射炉の実験が着手された。廃藩置県後、一時熊本鎮台の分営となっていたが、明治6(1873)年に本丸焼失。明治10(1877)年、西南戦争の際、二の丸の殿舎も焼失。その後、第七高等学校(のちの鹿児島大学)が置かれた。

場所を確認する

⑩ 私学校跡

明治6年(1873)10月、征韓論に破れ、下野して鹿児島に帰って来た西郷隆盛は、一緒に官職を辞して帰郷した多数の青年のために、桐野利秋、篠原国幹、大山県令などと共に拠出金で私学校を設立した。
この鹿児島城の旧厩跡に建てられた私学校は、銃隊学校と砲術学校からなり、篠原国幹、村田新八が指導にあたった。
西南戦争では私学校周辺は激戦地となり、当時の弾痕跡が今も石塀に残っている。

場所を確認する

⑪ 照国神社

島津家第28代当主・島津斉彬公を祀る神社。
名君といわれた斉彬公の死後、文久3(1863)年、天皇から「照国大明神」の神号が授けられ、藩では鶴丸城の西側の南泉院(1877年に焼失)の本門前に神社を建てることになった。神社は、翌年元治元(1864)年に完成、照国神社と称された。
照国神社は今も鹿児島で最も大きな神社として、多くの参拝者でにぎわっている。

場所を確認する

⑫ 若き薩摩の群像

鹿児島中央駅東口広場に立つ「若き薩摩の群像」は、薩摩藩がイギリスへ派遣した留学生一行の像である。
薩英戦争でヨーロッパの力を知った薩摩藩は、慶応元(1865)年、藩の優秀な青少年15名と使節団4名、計19名をイギリスに派遣した。
イギリスに渡った一行は、学問や技術を習得し、彼らの留学経験は日本の近代化に大きく活かされた。
この「若き薩摩の群像」の作者は中村晋也氏で、昭和57(1982)年に50万人都市達成を記念して建立された。

場所を確認する

⑬ 旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

慶応3(1867)年、薩摩藩によって、日本最初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所が建設された際に、その工場の指導者として招へいしたイギリス人技師イー・ホームら7名の宿舎として建築されたものである。建物は国の重要文化財、敷地の一部は国の史跡に指定されている。また、平成27(2015)年7月には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録された。

場所を確認する

⑭ 歴史国道 白銀坂

姶良市脇元から鹿児島市牟礼ヶ岡までの石畳の坂道で、戦国時代には島津貴久や義弘などの武将たちがこの坂に陣を構えたといわれている。
江戸時代に入ると、白銀坂は薩摩藩の主要街道として鹿児島城下から熊本へ抜ける薩摩街道「大口筋」上の難所として多くの人に知られた。現在約2.7キロの道のりが残っており、高低差は300メートル以上ある。歴史上重要な街道として歴史国道にも指定されている。

場所を確認する

⑮ 西郷隆盛誕生の地

幕末・明治維新で活躍した西郷隆盛誕生地です。

場所を確認する

⑯ 西郷隆盛終焉の地

明治10(1877)年9月24日、西南戦争の最終末にあたり、西郷隆盛以下彼に従った幹部が自刃ないしは戦死したところとして貴重な遺跡である。
記念碑の碑文には、「丁丑之役交戦数か月、薩軍日州長井村の重囲を破り、連戦数回鹿児島に帰り城山に拠る。時に9月1日、官軍従ってこれを囲む。これよりのち、激戦虚日なし。同24日の未明、官軍衆を悉くして迫る。翁すでに決するところあり。諸士を卒いて城山を下る。弾丸雨下半ば途に殪る。翁ついに岩崎谷口の砲塁を擁して自刃す。年51歳。桐野利秋、村田新八、桂久武、池上貞固、別府景長、辺見十郎太、その他悉くこれに倣う。今この碑の立つ所、これ、その終焉の地なり。いずくんぞこの旧跡をして煙滅せしむるに忍びんや。ここにおいて、有志相謀り石碑を建てもって永く記念となす。明治32年9月、これを建てる。」とあり、西郷隆盛終焉の概要を伺い知ることができます。

場所を確認する

⑰ 坂本龍馬新婚の旅碑

慶応2(1866)年、薩長同盟締結直後に坂本龍馬は京都の寺田屋で負傷しました。小松帯刀や西郷隆盛の勧めにより温泉で傷を癒すため、妻のお龍とともに薩摩を訪れました。龍馬とおりょうは小松帯刀邸や霧島にも訪れました。これが日本の新婚旅行のはじまりといわれています。
銅像は中村晋也氏によって制作され、昭和55(1980)年2月28日に設置されました。

場所を確認する

⑱ 東郷平八郎誕生地

1847(弘化4)年~1934(昭和9)年
「東洋のネルソン」と称された海軍提督。下加治屋郷に生まれた。
戊辰戦争では薩摩の軍艦「春日」の乗組員として活躍した。東郷の名を世界にとどろかせたのは、1905(明治38)年のロシア・バルチック艦隊との日本海海戦である。5月東郷連合艦隊司令長官の率いる日本海軍は、ロシアの精鋭艦隊を日本に迎え撃ち、日露戦争の勝利を確実にした。
祇園洲近くの多賀山公園に、東郷平八郎の遺髪を納めた墓と銅像が立っている。

場所を確認する

⑲ 黒田清隆

1840(天保11)年~1900(明治33)年
1888(明治21)年、大日本帝国憲法発布のときには第2次内閣総理大臣である。
黒田清行の長男として城下新屋敷(現・山之口町)に生まれた。通称は了介といった。
1865(慶応元)年、西郷隆盛の使者として長州に行き木戸孝允などの上京のために働き、翌年正月、薩長同盟を成立させるため奔走した。
戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いの後、北陸道鎮撫総督参謀となって功績をたて、降伏した庄内藩に西郷と一緒に寛大な処分を行い、薩摩と庄内連携の糸口をつくった。 1874(明治7)年に陸軍中将、次いで参議、開拓長官となった。翌年、特命全権弁理大臣として朝鮮に渡り、江華島事件を処理した。

場所を確認する

⑳ 松方正義の像

1835(天保6)年~1924(大正13)年
1835(天保6)年、鹿児島城下下荒田町出身。明治時代を代表する官僚・政治家。
大蔵卿、大蔵大臣として10年以上関わり「松方財政」と呼ばれる政府発行紙幣を整理し、日本銀行を設立、日本銀行兌換券を発行し金本位制度を確立。
第4代、第6代内閣総理大臣となる。
松方の信条は「我に奇策あるに非ず 唯 正直あるのみ」。

場所を確認する

㉑ 山本権兵衛誕生の地

1852(嘉永5)年~1933(昭和8)年
海軍大将。総理大臣。鹿児島市加治屋町に生まれた。
1898(明治31)年、第2次山県内閣の海軍大臣となり、引き続き7年間、海軍の最高の責任者の地位にあった。1904(明治37)年のロシアと戦った日露戦争では、海軍大臣として参加した。
1913(大正2)年、総理大臣となり行政の整理など手がけたが、シーメンズ事件が起り総理大臣をやめた。
1923(大正12)年9月、関東地方をおそった関東大震災のさなか、また総理大臣になり、東京の町を復興することに努力した。心が広く、小さなことにこだわらない、さっぱりした、ユーモアのある性格だったといわれる。

場所を確認する

もっと詳しい鹿児島の歴史を知りたい歴史ファンの方には、人情味あふれる観光ボランティア「まち歩きガイド」による「鹿児島ぶらりまち歩き」がおすすめです。全16コースあり、それぞれのコースにまつわる歴史やエピソードなどを紹介しながら観光ポイントを案内します。(有料・お1人様500円)

『鹿児島ぶらりまち歩き』のウェブサイト

連携大会

北海道マラソン 松本マラソン
鹿児島市観光サイトよかとこかごんまナビ 鹿児島観光サイトどんどんかごしまの旅 かごしま国体 桜島、錦江湾ジオパーク ふるさと納税総合サイト ふるさとチョイス
福岡マラソン 北九州マラソン 熊本城マラソン 出水ツルマラソン いぶすき菜の花マラソン ランニング桜島
marathonchallengecup 鹿児島30K 鹿児島マラソン応援列車