鹿児島マラソン2019

ランナー

コース周辺史跡めぐりマップ

鹿児島マラソンコース周辺には、明治維新で活躍した偉人に関する史跡がたくさんあることをご存知でしょうか!?
西郷隆盛銅像を始め、島津斉彬公像、小松帯刀像などコース周辺に点在する史跡をまとめた「鹿児島マラソンコース周辺史跡めぐりMAP」を作成しました。
大会前のコース下見を兼ねた史跡めぐりにお役立てください!

① 西郷隆盛銅像

貧しい下級武士の子として鹿児島城下に生まれた。
17歳のとき、郡方書役助という農村をまわって農業の様子を調べ、年貢をとる役人になり、農民のみじめな生活を知る。農業についての意見書を藩庁にたびたび出したことが藩主島津斉彬に認められ、斉彬の信頼を受けて、やがて日本の西郷として活躍する。
明治新政府の参議となって、廃藩置県などの改革を行い、近代日本建設の土台づくりをした。昭和12年5月23 日に設置された銅像は、台石を含むと約8mにもなる。

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② 大久保利通銅像

高麗町の川岸の近くに生まれ、まもなく加治屋町に移り住んだ。
西郷隆盛より2年8ヶ月下で、学問好きな父に見守られ、西郷たちと一緒に郷中教育を受けて成長した。
明治政府ができると、大久保は参議(今の大臣)となり、さらに1871(明治4)年には大蔵卿となって西郷などと廃藩置県をやりとげ、近代的な統一国家を実現した。
地租改正を実施したり、産業を盛んにする殖産興業の政策など日本の近代化に積極的に取り組んだ。

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③ 島津斉彬公像

島津家第28代藩主。父は藩主斉興と母は鳥取藩主池田治道の第三女周子(賢章院)との間に、長男として江戸で生まれた。
1851年(嘉永4)斉興が隠退し、斉彬が第28代藩主にな り、薩摩守と称するようになった。斉彬は藩主になると、藩政改革をし、藩の富国強兵策を率先して強力に実行した。
磯に集成館を建て、反射炉、溶鉱炉をつくり、新式の大砲(薩英戦争で使用)や銃を生産した。

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④ 小松帯刀像

喜入領主肝付主殿兼善の3男として城下に生まれた。
1861(文久元)年、島津久光の藩政改革を助けて藩政の中心人物となり、大久保利通など有志の者を重く用いた。
1866(慶応2)年、京都の小松邸で坂本龍馬の立ち合いのもとに、小松・西郷と木戸孝允(桂小五郎)の間に薩長同盟を成立させ、1867(慶応3)年、討幕の密勅を受けた小松は西郷・大久保と帰郷し、討幕挙兵に導き、王政復活、倒幕と明治維新の実現に活躍した。

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⑤ 天璋院(篤姫)像

今和泉島津家の島津忠剛の娘、一子として、鹿児島城下(現在の鹿児島市大竜町)に生まれた。
島津本家は、1853(嘉永6)年に一子を島津斉彬の実子として鶴丸城に迎え入れ、名は篤姫と改められた。同年、江戸に入ったが、政情不安や天災などの影響もあり、1856(安政3)年、将軍家定の御台所となる。
江戸城無血開城に大きな役割を果たし、德川家達の養育に専念した。

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⑥ 村田新八誕生地の碑

鹿児島市薬師町に生まれた村田新八は、少年時代から西郷隆盛と友だちで、よく遊び、よくけんかした。
戊辰戦争では、2番隊監軍として活躍した。
西郷や篠原国幹たちと私学校をつくり、私学校の砲隊学校の校長格として青少年たちの指導にあたった。
アコーディオンをひくほど音楽を好み、温泉好きでもあった。
西南戦争では、はじめから進んで賛成してはいなかったが、いざ始まると、大隊長として活躍した。

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⑦ 五代友厚銅像

鹿児島市城ヶ谷(現長田町)で生まれる。 歴史国道 白銀坂8歳の頃、藩校の造子館に入り、学問と武芸に励む。
1863(文久3)年、薩英戦争が始まり、寺島宗則とともに捕虜となり、1年間藩に戻ることは許されなかった。
1878(明治11)年、大阪に最初の商法会議所や株式取引所、大阪商業高校(現在の大阪市立大学)を建て、大阪の商業の発展に力を注ぐなど、自らが起こしたもの、設立に関わった事業は数多い。

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⑧ 西郷隆盛蘇生の家

この地は、安政5年(1858)11月16日未明に、海中に身を投じた西郷隆盛、月照上人の2人をこの砂浜において焚火をもって暖め、付近の坂下長右衛門宅に収容し、手厚く介抱した場所である。月照は亡くなったが、大久保利通などによって手厚く南林寺に葬られた。月照の墓は現在、南洲寺の境内にある。

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⑨ 鶴丸城跡

鹿児島城。慶長7(1602)年に島津家第18代家久によって築城。集成館事業においては、城内製錬所(開物館)に反射炉のひな型が造られ、反射炉の実験が着手された。廃藩置県後、一時熊本鎮台の分営となっていたが、明治6(1873)年に本丸焼失。明治10(1877)年、西南戦争の際、二の丸の殿舎も焼失。その後、第七高等学校(のちの鹿児島大学)が置かれた。

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⑩ 私学校跡

明治6年(1873)10月、征韓論に破れ、下野して鹿児島に帰って来た西郷隆盛は、一緒に官職を辞して帰郷した多数の青年のために、桐野利秋、篠原国幹、大山県令などと共に拠出金で私学校を設立した。
この鹿児島城の旧厩跡に建てられた私学校は、銃隊学校と砲術学校からなり、篠原国幹、村田新八が指導にあたった。
西南戦争では私学校周辺は激戦地となり、当時の弾痕跡が今も石塀に残っている。

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⑪ 照国神社

島津家第28代当主・島津斉彬公を祀る神社。
名君といわれた斉彬公の死後、文久3(1863)年、天皇から「照国大明神」の神号が授けられ、藩では鶴丸城の西側の南泉院(1877年に焼失)の本門前に神社を建てることになった。神社は、翌年元治元(1864)年に完成、照国神社と称された。
照国神社は今も鹿児島で最も大きな神社として、多くの参拝者でにぎわっている。

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⑫ 若き薩摩の群像

鹿児島中央駅東口広場に立つ「若き薩摩の群像」は、薩摩藩がイギリスへ派遣した留学生一行の像である。
薩英戦争でヨーロッパの力を知った薩摩藩は、慶応元(1865)年、藩の優秀な青少年15名と使節団4名、計19名をイギリスに派遣した。
イギリスに渡った一行は、学問や技術を習得し、彼らの留学経験は日本の近代化に大きく活かされた。
この「若き薩摩の群像」の作者は中村晋也氏で、昭和57(1982)年に50万人都市達成を記念して建立された。

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⑬ 旧鹿児島紡績所技師館(異人館)

慶応3(1867)年、薩摩藩によって、日本最初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所が建設された際に、その工場の指導者として招へいしたイギリス人技師イー・ホームら7名の宿舎として建築されたものである。建物は国の重要文化財、敷地の一部は国の史跡に指定されている。また、平成27(2015)年7月には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録された。

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⑭ 歴史国道 白銀坂

姶良市脇元から鹿児島市牟礼ヶ岡までの石畳の坂道で、戦国時代には島津貴久や義弘などの武将たちがこの坂に陣を構えたといわれている。
江戸時代に入ると、白銀坂は薩摩藩の主要街道として鹿児島城下から熊本へ抜ける薩摩街道「大口筋」上の難所として多くの人に知られた。現在約2.7キロの道のりが残っており、高低差は300メートル以上ある。歴史上重要な街道として歴史国道にも指定されている。

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